枝吉神陽(えだよししんよう)

倒幕思想の魁(さきがけ)。明治維新はこの人から始まった!

佐賀の歴史はすごいです。引っ越してくるまで、なにもないのが佐賀のいいところだと思っていましたが、それはとんでもない間違いでした。日本の西の端にありながら、ヨーロッパ並の軍事力を有し、明治維新の実現に大きな役割を担った佐賀藩の歴史が数多くの史跡を通して語りかけてきます。
まずは佐賀市内にある高伝寺を訪ねてみてください。そこに幕末の尊王思想家、枝吉神陽(えだよししんよう)の碑文があります。


kodenji

高伝寺。鍋島藩歴代の君主が祀られていて、
とても静かな空間です。江戸時代に
タイムスリップできます。

枝吉神陽先生顕彰碑
高伝寺にある枝吉神陽先生顕彰碑
(原物は風雨にさらされてほとんど読めなく
なっていますので隣に書き写した碑が新た
に建てられています)

明治維新は長州、薩摩の活躍が目立ちますし、思想的には松下村塾の吉田松陰からスタートしたと考える人もいらっしゃるかもしれませんが、倒幕の思想はこの枝吉神陽が説いた『日本一君論』から始まったと碑文は伝えています。

当時の日本において幕府が倒れるなんてことは想像だにできなかったことです。枝吉神陽は『日本一君論』の中で『源頼朝から始まる武家政権はもともと天皇の家来であった者たちが権力を盗みとったものだとして痛烈に批判しました。』そして『日本に「君」と呼ばれるべき存在は天皇のみ。徳川幕府の将軍は「君」ではなく『主人』にすぎないなのだ』と主張したのでした。

吉田松陰は肥前街道を通って長崎に至る途中で枝吉神陽と会っています。枝吉神陽はすでに江戸の昌平黌への留学中、昌平校の舎長となるほどの傑出した人物ですでに名声を得ていました。江戸では水戸の尊王思想家として有名な藤田東湖とも交流がありました。8つ年下であった松蔭は枝吉神陽に深く感化されています。松蔭は後に『一君万民論』を説いておりそのタイトルからしてもこれが神陽の強い影響を受けたものであることは明白でしょう。松蔭は佐賀に行く仲間には必ず枝吉神陽を訪ねるように勧めています。

尊王思想は水戸光圀編纂の「大日本史」をベースとして水戸藩でおこりましたが、御三家という立場では尊王といっても、あくまでも幕府ありきの発想に限界がありました。幕末に倒幕という考えまで公然と踏み込んだのは枝吉神陽が初めてでした。佐賀は倒幕思想発祥の地と言っても良いでしょう。

碑文を読んでいると当時の人たちの魂の叫びが聞こえてくるようです。あたりに人影はなく、時空を超越したメッセージが心をうち震わせます。

(碑文の大意)
『肥前に神陽先生あり!』
どういうことかと言えば、幕府がまだ強く、誰もがその力を恐れていた時代になんと神陽先生はいつも幕府を倒すことを考えていたのでした。
『この世の中は神の子孫である天皇が治めるものであって、武力を有する者は天皇のもとで敵を征伐することがその役割であるはずである。そもそも幕府というものは征夷大将軍という軍隊に過ぎないのである。征夷大将軍にすぎないはずの幕府が天下を治め、海外に対しては自分を日本の王様と自称することがどうして許されようか!』

このおごりを咎めるべき他の藩は将軍の言いなりとなって殿様と称している。呼び名を偽っていると言わざるを得ない。呼び名が正しくないからその言動も正しくないのである。神陽先生はこのことをとても怒っていらしゃいました。

神陽先生は父である南濠先生に教えを受けました。南濠先生はいつも忠臣楠木正成・名和・児島・菊池・新田などの生き様を教えました。ですから神陽先生の原点はここにあります。

神陽先生は若いときに江戸の昌平校で学び、舎長となりました。しかしそれをやめて全国を旅し、大きな志を持つようになります。佐賀に帰ってからは生徒を教育するようになります。

ペリーが来た時、開港か鎖国かで国内の世論が紛糾しました。朝廷は鎖国を主張しましたが、幕府はこれに従おうとはしませんでした。神陽先生は弟の副島種臣を京都に送り、大原三位公に「どうして今こそ倒幕を行おうとしないのですか?国家の体制の誤りを挽回すれば、その後で開国、鎖国の議論をしても少しも遅くはないのです。」と進言させました。それに対して大原三位公は「青蓮院親王殿下に進言するのが良いでしょう。殿下は朝廷の要であり、賢い方ですから」とおっしゃいました。数日後青蓮院親王は副島種臣と接見し聴取され、肥前からどれほどの兵を出せるかという話がありました。

しかしこのことが藩上層部の咎めを受けることになり、副島種臣は謹慎処分を受けることになりました。また神陽先生を藩を軽んじる者として鍋島閑叟公に告げ口する者がいました。閑叟公は人づてに「お前は藩を軽んじるのか?」と問いただしました。神陽先生は「そういうことではありません。私は朝廷を尊んでいるのです。朝廷を尊ぶのは藩の考えと同じです。私は藩を重んじているのです。決して軽んじていることはありません。」と答えました。

閑叟公はまた人づてに言いました「お前はなぜ私の臣と称しないのだ。」と。それに対して神陽先生は「日本人は皆、天皇の臣です。藩は天皇の兵であるのですから藩の一員である私は天皇の一兵卒にすぎないのです。」と答えました。閑叟公はこれらのやり取りを聞いて神陽先生の考えに理解を示しました。

弟の副島種臣が謹慎処分されたことに関して閑叟公は神陽先生に諭して言いました。「私は種臣の事を憎んでいるわけではないのだ。種臣の友人たちは皆、死刑となってしまっている。その流れで種臣が幕府に罰せられることを恐れているだ。種臣を謹慎させたのは彼を守るためなのだ。」と説明しました。

神陽先生は体が大きく頑丈でたいへん声の大きな人でした。目はたいへん鋭く、足が丈夫でした。1日20里を歩き、下駄で富士山に登っても疲れを知りませんでした。不出来な弟の種臣(この碑文を書いた副島種臣)ですら政府の高官となったことを考えるともし神陽先生が不慮の死に会わなければどれだけ朝廷に貢献したかということを考えると残念でなりません。

(原文)
大隈重信発起
神陽先生神道碑銘

肥前に神陽先生有り。
此れ何を以ってか称する。
夫れ幕府の強きに当たりてや、天下皆其の威を畏る。

而して先生は常に之を蕩覆せんことを思う者なり。天下は皆神武の天下にして、瓊皇の緒業する所なるを以て、故に臣と為りて主に強逼する者は宜しく征伐の典に在るべし、夫れ幕府なる者は、豈に一の征夷大将軍の任に非ずや。

一の征夷大将軍にして、而も以て天下を有すと為し、其の海外万国に臨むや、即ち常に自ら大君と称す。其の僭 憎むべし。且つ此の時誰か僭せざる者ならん。将軍の僕隷にして藩侯と称す。その予台にして士大夫と称するは、名を乱すこと殊に甚だし。夫れ名正からざれば則ち言順はれず。言順はれざれば則ち事ならず。天下の事を成さんことを要すれば其れ名を正すに在らんか。此れ神陽先生の悲憤慷慨する所以なり。神陽先生なる者は、名は経種、字は世徳、神陽はその号なり。業を南濠先生は神陽先生先生に教授するに、つねに古の忠臣楠木正成・名和・児島・菊池・新田等の節を以て之を称す。

故に神陽先生の精神常に此れに在り。或いは其の経義のすい奥、史学の宏渉、文辞の華藻に服すること、けい異にして尤も盛んなるも、此れ特に其の緒余のみ。嘗て「名分称謂弁正考」を作して以って志を言う。今家に蔵す。詩文集若干巻は再び回禄を経て一も遺す無し。近来其の世間、人の口碑に流伝する者を輯合してわずかに一巻を得たり。而して尊王抑覇の口気、固より自づから其の中に見ゆと云ふ。先生妙年にして江戸昇平学校に游び、その舎長と為る。遂に之を釈てて天下を漫游し、一たび磊磊落落の志を成さんことを思ふ。至る所合わざること多く、帰りて生徒に教育す。

即ち会々米利堅の使彼理来たって、天下に開港鎖港の論 紛起す。而して朝廷は鎖港説を主とするも、幕府の諸吏未だ或いは之に従ふ能はず。神陽先生 次弟種臣をして京都に造り、大原三位公に言わしめて曰く「何ぞ此の時に乗じて一たび幕府を討滅せざる。国家千載の衰運を挽回せば、亦快からずや。然る後に開港鎖港の可否得失を廟堂の上に審評討議するも未だ晩からざるなり」と。三位曰く、「何ぞ之を青蓮院親王殿下に奏せざる。其の謂ふ所を得ん。殿下は今上の肺腑なり。賢にして行ひ有り」と。青蓮院に奏すれば、即ち伊丹蔵人折伴して曰く、「肥前に兵幾許かを仮ることを為さん」と。

此の事 有司者の咎むるところと為り、種臣禁閉せらる。神陽先生を閑叟公に悪る者有って、其の甚だ藩室の事を軽んずるを欲するを謂ふ。閑叟公 人をして神陽先生に言わしむ、「汝甚だ藩室の事を軽んずるか」と。神陽先生答ふ、「是れ無し。夫れ所云甚だ藩室の事を軽んずるとは、豈に以って朝廷を尊ぶならんか。朝廷を尊ぶは、藩室の義を成す所以なり。是れ藩室を重んずるなり。軽んずるには非らざるなり」と。閑叟公又人をして言わしむ。「汝 我と臣称せざるは何ぞや」と。神陽先生答ふ。「普天率土 王臣に非ざる莫し。明公閣下夙に茲の義を知れり。且つ王室に藩たれば、其の率いる所は貔貅の精兵隊旅なり。経種も亦其の一に居るを知るを要するのみ」と。閑叟公 対を聆きて之を懿す 夫の種臣禁閉せらるるや、閑叟公 意を神陽先生に喩して曰く、「人 夫の種臣をに悪む者に非ず。夫の種臣の交友梅田・頼等、皆己に惨刑に遭ふ。其の連累波及を恐る。故に之を禁閉するは、実に之を生かす所以なり。汝 善く之を視よ」と。

神陽先生は容貌魁梧、方面にして大口なり。音出づること洪鐘の如く、屏障之が為に振るはんと欲す。眼は偉長にしてせん光人を射る。隆準長耳にして脚健、日行二十里なり。曾て高履を納れて、富士山に登降して疲れず。

種臣不肖無似にして、遂に名を王府に策す。借りに神陽先生をして未だ死せざらしめば、以て明治朝廷を補佐し、其の功業は非常の観に当たらん。惜しいかな。先生人と為り、度量は以って人を容るるに足り、慈善は以て弘被するに足る。けだし此れ悉く既に之を郷党隣里朋友の間に行ひて、国人に施すなり。

故人の敬愛慈慕して余をして之に銘せしむるは、将にその信然として昭明較著にして、邑に特有る者は、之を後世に伝へんと欲すればなり。先生に人を知るの鑑有るも、其れ他人の得失に係る。故に載せず。

謹んで按ずるに神陽先生は、本姓は大蔵氏なり。大蔵春実・大蔵種材は皆朝廷に仕へ、討賊の功有り。子孫多く肥前・筑前・筑後の間に封ぜらる。其の肥前枝吉に居る者 枝吉氏を称す。枝吉種次なる者以下、鍋島氏の麾下に属す。枝吉種彰は南濠先生たり。神陽先生の父なり。母は木原氏にして賢なり。季弟利種は純孝にして名有り。

先生生まれながらにして端凝なり。幼にして能く言ひ、七歳にして書を学ぶ。性強記にして、成人に到る比ほひには、既に宏辞を称し、二十一二にして儼然として夫子なり。夫れ神陽先生は維新に逮及んで、其の道丕いに顕らかなり。故に初め未だ合せざる者も、此れに至りて大いに合す。則ち神陽先生は維新に逮及んで、其の道丕いに顕らかなり。故に初めて未だ合せざる者も、此に到りて大いに合す。即ち先生は一生固より愆ち无き者なり。先生は文政五年五月二十四日を以って生まれ、文久二年八月十四日を以て歿す。享年四十一、高伝寺に葬らる。

妻は母氏の姪女にして亦賢なり、子数あり。先生将に歿せんとするの夕、悠然として天子の所を拝して曰く、「草莽の臣、某事畢はれり」と。銘に曰く、「我 神陽を念ふ白雲の郷。眷みるも見えず 心之れ傷む。即ち見えずと雖も、先生の道の彰らかなり。今皇帝の祚猪昌んなり」と。

明治二十年 弟 副島種臣誌 相良頼善 書
釈文 佐賀大学文学部教授 近藤則之

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