義祭同盟(ぎさいどうめい)

吉田松陰の松下村塾と並び称せられる義祭同盟。ここで熱く語られた尊王への想いは多くの佐賀藩士に受け継がれ明治新政府の原動力となっていく。

江戸時代の末期、佐賀では枝吉神陽が中心となって義祭同盟(ぎさいどうめい)という勤王思想の政治結社が発足しました。

義祭同盟が奉っているのは楠木正成の親子です。楠木正成は死ぬまで忠義を通した天皇崇拝者として戦前よく知られていましたが、日本で最初に楠木正成を奉ったのは佐賀藩で、水戸光圀が作った湊川神社よりも29年も早いと言われています。

南北朝時代、京都の武士や公家たちが三つ巴の戦いを繰り広げましたが、九州でも同じように激しい戦いが続きました。竜造寺や鍋島といった佐賀のおもだった武将たちは、室町幕府側に付いたり朝廷側に付いたりといったこともあったようですが、根底の部分で勤皇への思いは古くから面々と続いていたようです。

義祭同盟の主催者、枝吉神陽がとなえる「日本一君論」は倒幕思想の魁(さきがけ)として多くの志士の思想と行動に影響を与えました。「日本一君論」とは日本に「君」と呼ばれる存在は天皇ただ1人であり、江戸幕府の将軍は「君」ではないという考えです。つまり江戸幕府や各地の大名たちが自分たちの事を「君」と称して家来を「臣」とみなすのはとんでもない詐称だというのです。

義祭同盟の碑
全国の倒幕運動の魁(さきがけ)となった義祭同盟の碑

キリスト教やイスラム教、あるいはユダヤ教といった一神教の世界でも創造の神はただ1人で、人間は神のもとにすべて平等であると教えています。同様に日本において創造の神は天皇であり、天皇以外の国民はすべて平等であると考えるのが「日本一君論」であると言って良いでしょう。

「日本一君論」は吉田松陰などによれば「一君万民論」などとも呼ばれますが、なにも幕末に突然沸き起こってきた考え方ではありません。元をたどれば後醍醐天皇の「建武の新政」さらに、「大化の改新」までさかのぼることができます。

つまり日本という国はもともと天皇が作り、天皇が治める王国であり、天皇を崇拝する国民が平等に生きていく理想の国家なのだという考え方が根本にあるのです。これは大宝律令にある「公地公民」という言葉からもわかるように、共産主義と非常に近いものだといえます。我々は共産主義と天皇国家は水と油でまったく相容れないと考えがちですが、違いは王様がいるかいないかでだけで、国家としての方向性は同じなのです。

さて、佐賀で発足した義祭同盟ですが、驚くのは倒幕思想の政治団体であるにもかかわらず、藩が支援していたということです。藩の要職にあった鍋島安房(あわ)という人をはじめ、多くの藩士が義祭同盟に参加し、無礼講で議論を戦わせていたというのです。

義祭同盟に藩が公然と関わったのは、危険思想である討幕運動をコントロールするためであり、そのために佐賀の勤王運動は抑えつけられ陽の目を見ることがなかったと解する人もいるようです。

しかしそれはあくまでも武力革命というクーデターを行なった薩摩や長州からみた尺度であり、義祭同盟が本当に目指したものは天皇を崇拝することによって世の中の乱れを正したいという高次元の理想社会の追求だったのだろうと思います。

実際にこの義祭同盟から明治政府の中核となる多くの人材を輩出していることを考えると勤皇思想の母胎となった義祭同盟の役割はすこぶる大きかったと言えます。

楠神社例祭
楠木正成が湊川の戦いで亡くなった毎年5月25日には楠神社で例祭が行われる

楠神社に祀られている楠木正成父子像
義祭同盟が神様として祀るのは楠木正成父子。天皇に対して絶対忠誠を誓った楠木正成父子は勤王思想家にとって英雄中の英雄、神様なのです。

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