尊王攘夷

開明派の名君であるはずの鍋島閑叟が幕府の諮問に対して古臭い尊王攘夷を主張したのはなぜでしょうか?

尊王攘夷(そんのうじょうい)という言葉はとても古臭く感じられるかもしれません。しかし、現代で言うナショナリズムという言葉に置き換えれば、感覚的に理解できるのではないでしょうか?

言葉は古くとも、その思想自体は今も世界に共通の民族意識です。

幕末の佐賀藩主、鍋島閑叟は佐賀藩が長崎警護を大事な任務としていたこともあって、外国の軍艦に乗り込んで内部を実見した唯一の大名と言われます。また佐賀藩の人間には儒学や国学だけではなく、蘭学を学ぶように指導したたいへん開明的な殿様でした。

そのような開明的な発想の持ち主の鍋島閑叟がペリーの開国要求に関して幕府から意見を求められたとき主張したのは、開国ではなく、『攘夷(外国船を打ち払って鎖国を通す事)』でした。当時の知識人の間では、『日本の軍事力で攘夷は到底無理』というのが常識であったのにもかかわらずです。

閑叟はなぜ攘夷を主張したのでしょうか?

日本に開国を求めたペリーのやり方は、力ずくでした。つまり江戸湾に蒸気機関で動く強力な軍艦を浮かべ、『いつでも江戸を火の海にしてやるぞ』と脅して来たわけです。江戸幕府はペリーに対して長崎へ行くように求めますが、そんなことをペリーが聞くわけがありません。話し合いをするときは武力で威嚇したほうが要求が通りやすいということを知っていたからです。

例えていうならペリーは将軍の胸ぐらを捕まえて、『おいこら、おれと付き合わないならぶん殴ってやろうか!』と脅しにきたわけです。体格も体力も数段上の相手に普通の人間が胸ぐらをつかまれたら、おとなしく『ごめんなさい』というのが普通でしょう。しかしまがりなりにも軍事の政権の長である将軍がペリーの脅しに屈しそうになっていることに尊王攘夷論者や閑叟はむちゃくちゃ腹がたったわけです。相手がどんなに強くとも、たとえボコボコに殴られようとも戦うのが大和魂であり、武士ではないでしょうか? そもそも征夷大将軍とは外国から日本を守るための軍隊の長であるはずなのです。その征夷大将軍が敵の暴力に怯えて屈するようであれば今すぐ征夷大将軍なんか辞めちまえということなのです。

以下は鍋島閑叟みずから起草した幕府への回答書です(開国前夜の佐賀藩より)

『アメリカ船より提出された書簡の意味を、とくと検討しました。実に国家の一大事とは正にこの時であります。さりながら、敵国の外患はいかんながら国家にとっては幸いにして、有為の方々が正に今こそ海防対策を立案なされる時かと存じます。
 通商の事はこれまでのいきさつもあり、許可されるべきではありません。万一許可されるならば、ロシア、イギリス、フランス等の諸国がたちまち渡来して要求するは必定であります。アメリカに許可され、ほかの国々に許可しないとは申し訳はできにくく、根拠なく許可されれば彼らは日本にとって無用の品と交易し、のみならず後々いかなる難題がでてくるかもしれず、されば許可されるは一時のがれの策にして、後々不測の大害を引き出すことになります。
 かつまた、蒸気船の往来のため南境の港の一つを選んで入港のお許しを得たいとの願いは、いかなる策略があるかもしれず、決して許可なされないように。ただし、難破船の救済のことはたいへん容易のようですが後々かえって事が起こるかもしれず、このことはとくとご検討されるべきだと思います。
 恐れながら、お上には征夷大将軍の職にあられるわけですから。征夷の二字は実に万世不易の大眼目かとぞんじます。わが神州は大海の中にあり、久しい間、独立、あえて蛮人によって犯されざるはひとえに武威が海外に輝いてきたからであります。泰平の世久しく、士気振るわず、蛮人はそのすきを窺い、無理なことを申し立て、万一荒々しく傲慢な振る舞いのことあれば国体にも関係いたし、捨て置き難き事にもなれば断然打ち払いに決定され、泰平遊惰な士気を一掃、もとより固有の武勇を挽回し、国家磐石の基礎を固むべきだと存じます。』(全文)

『いやそうは言っても国が滅んでしまってはもともこもないではないか?』というのが当時の知識人の考え方ですが、長崎警護にあたって日本最高の洋式軍隊を保持していた閑叟には、感情論だけではなく実際に攘夷が可能であるという読みがあったはずです。つまり他藩も佐賀藩に倣って鉄製の大砲を装備すれば決して攘夷は不可能ではないはずです。そうなれば幕府が佐賀藩に発注したように他藩も佐賀藩に大砲を大量に発注するはずですから、いよいよ佐賀藩の存在が大きなものになるであろうという読みもあったことでしょう。

さらに閑叟は、実際に日本全国津々浦々、大砲を装備するのは無駄が多いので、日本も軍艦を建造し、海軍の力で防衛する必要があるとすぐれた見識を述べています。

佐賀藩は佐賀の三重津海軍所というところで実際に軍艦の建造も手がけていました。その海軍所を世界遺産に登録しようという動きも現在進行中(平成27年7月5日世界遺産委員会において記載(登録)が決定されました)です。

鍋島閑叟は尊皇という武士の忠義を貫きながら、聡明に情勢を見極めることのできた幕末最高の指導者であったといって良いでしょう。

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