鍋島直正(鍋島閑叟)

肥前の妖怪と恐れられた鍋島閑叟。日本一の西洋式軍隊を保持した殿様は何を考えていたのでしょうか。

倒幕の機運が高まり、薩摩や長州が中心となっていよいよ武力で幕府を倒そうということになったわけですが、佐賀藩は最後の最後まで倒幕派に加わろうとはしませんでした。当時の佐賀藩の軍事力は図抜けていましたから、新政府軍が何度も参戦を要請してきたにもかかわらず、『長崎警護』を理由にのらりくらり引き伸ばしていたようです。

佐賀藩が最終的に倒幕に加わったのは鳥羽伏見の戦いが起こって、新政府軍が錦の御旗を掲げ、朝敵となるのを恐れた徳川慶喜が江戸に逃げ帰った後のことです。それまで佐賀藩は軍隊を有田の港に停泊させ、勝敗のゆくえを見極めようとしていました。

最初にその事実を知った私は、こんな事だから佐賀は維新の波に乗り遅れたのだと思い、優柔不断な佐賀藩に対して強い失望を感じたものです。

鍋島閑叟写真
鍋島直正(閑叟)

佐賀藩が新政府軍になかなか加わろうとしなかった理由は、佐賀藩の殿様であった鍋島閑叟(なべしまかんそう)の奥さんが幕府の11代将軍、徳川家斉の娘であったことからもわかるように、幕府と非常に親しい関係であったからだと思われます。

閑叟公は、水戸藩の徳川斉昭を幼少の頃から尊敬しており、安政の大獄で有名な井伊直弼とも親交があり、幕府内では松平姓まで名乗っていたようです。つまり幕府の親戚と言っても良い立場でした。ですからいくら倒幕の機運が高まっても自分の親戚に大砲を向けるなんてことが簡単にできるわけがありません。倒幕派に簡単に加わらないのは道義的に当然のことでしょう。

幕府の側も有力大名を武力ではなく政治的にコントロールするために婚姻政策を積極的に進めて行ったのでしょう。世界史ではハプスブルグ家が婚姻によって世界の頂点に君臨しましたが、同様に婚姻政策は幕末の日本でも国家安泰の大きな柱であったと言えそうです。55人の子供がいたという徳川家斉をとんでもない好き者、快楽主義者と感じてしまう人も多いでしょうが、家斉自身は婚姻政策によって平和を維持するという政治に本気で取り組んでいたのだと思います。

幕府と婚姻関係を結んだ佐賀藩は完全に幕府の側についていたかというと、決して幕府一辺倒ではなく、閑叟はむしろ勤王思想の持ち主でした。その事は勤王思想家の集まりである義祭同盟を藩の管轄である楠神社(くすのきじんじゃ)で行うことを認めたこともでわかります。勤皇思想自体は幕府から見れば危険思想ですから、下手に義祭同盟を認めれば幕府に睨まれることにもなりかねません。

鍋島閑叟書 忠勤
鍋島閑叟公が書いた忠勤の書。
彼もまた勤皇思想の持ち主だったことが
うかがい知れる。

それで最終的に佐賀藩は幕府と朝廷を合体させて国難を乗り切るという公武合体という考え方を支持したのでした。倒幕という過激なものではなく、穏健な公武合体を支持したことは至極自然な姿勢と言えるでしょう。

そして佐賀藩は、尊王攘夷や倒幕といった直接的な政治活動にはなるべくかかわらず、ひたすら大砲や蒸気機関の開発、近代兵器を装備した西洋式軍隊の育成に専念し、きたるべき時に佐賀藩としての責任を果たそうという次元の高い構想を持っていたようです。佐賀藩の軍事力が重鎮として働かなければ、戊辰戦争はおそらく簡単には終わらなかったでしょうし、内戦状態を良いことに海外の勢力に付け込まれた可能性もあるでしょう。

幕末の佐賀藩の事を消極的で、時局に乗り遅れたと解釈している人も多いようですが、よく考えてみれば『薩長土』あるいは『薩長土肥』という順列はあくまでも薩長の倒幕という一方的な尺度で捉えたものに過ぎません。

鍋島閑叟公は死ぬ間際に『もし私が戦国時代に生まれていればもっと面白かっただろうに』と言ったそうですが、幕末という時代にあって近視眼的な発想に囚われることなく、時代の流れを見据えた姿勢は決して優柔不断などではなく、稀代の名君として深い尊敬に値するものだと思います。

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